信仰としての診断士2次試験学習

2次直前演習(4事例×3セット)が終わり、TACの講義は全部終了となった。約1年間通い、多少の感慨もあるが、2次試験本番(10月21日)まで1か月を切ったこの時期、感慨に浸っている暇はない。

なにしろ、2次の学習に苦心惨憺している。苦労の連続だ。

思えば、1次試験の勉強は楽しかった。過去問を解けば実力の伸長が分かりやすく実感=見える化できたのだから。2次(事例4以外)の勉強はそれがまったく見えない。

過去問はあるけれど、正解がわからないのだから、自分の出した答えが正しいのかどうかさえ、はっきりわからない。いろいろな受験校や書籍が「正解の・ようなもの」は出しているが、多くの場合、内容がまちまちだから、じゃあ、どれを選べばいいのか結局判断できないこともある。

「正解の・ようなもの」に書かれていることに、納得できないことも、よくある。なんでそんな答えになるの? と。

「因果」って、簡単に言ってくれるなよ

2次試験の勉強をしていると、受験校の解説などで「解答は因果で書きましょう」とか「因果関係を抜き出しましょう」みたいな説明がある。

それが自分は苦手だ、ということだけは、わかった。因果関係が、苦手なのだ。

例えば、こういうことだ。

リンゴを手に持っている。手を離したらリンゴは落ちた。「リンゴが落ちた原因を考察せよ」という問題があったとする。

「リンゴが落ちた」の原因は、「手を離したから」なのか、それとも「万有引力があるから」なのか? 手を離したって、引力が無ければリンゴは落ちない。引力があったって、手を離さなければリンゴは落ちない、ではどちらが「原因」だと言えるのか?

こういうことを考えると、「因果で書く」というのは、そう簡単なことではない。

神の存在証明

因果関係といのうのは、古代アリストテレスの時代から、哲学上の大きな問題となっている。

つまり、世界のすべての事象には、なんらかの原因がある。原因がなく事象が発生することは、ない。すると、事象Aが生じた原因がBだとして、そのBが生じたのには原因Cがあったはずだ、原因Cが生じたのにも、原因Dがあって……、と延々とさかのぼれる。では、私たちがものごとの「原因」だと思っていることは、あくまでそう見えるだけの仮のもので「本当の原因」とは呼べないのではないだろうか?

そうやってさかのぼっていけば、もうこれ以上はさかのぼれない、これが最初、という究極の原因があるはずだ。すると、それは「神」としか言えないはず。というのが、アリストテレスが考え、トマス・アクィナスも援用した「神の存在証明」だ。

古代や中世の話ではない、今でも、これを否定することは、難しいと思う。たとえば、「宇宙の誕生は『ビッグバン』です」と宇宙物理学者が説明したとしても、「じゃあ、そのビッグバンはどうして起きたのですか」と問われて、神という理由を持ち出さずに説明することは(あるいは、「神の意志」という説明フレームを否定することは)、難しい。もし別の理由を持ち出したとしても、「じゃあそれが起きたのは?」と延々に原因を問われていく。神の存在証明はいくつかのパターンがあるが、究極因による証明を、だからカントは「宇宙論的証明」と呼んだ。

ぜんぶ、アリストテレスのせいだ

事例3の問題で、「生産リードタイムが長い」という問題が生じていた。その解決策を問われる。与件文には、「段取替えに時間がかかっている」とある。じゃあ、それがリードタイムが長いことの原因だから、解決策は「外段取り化すること」と答える。そういう答えが、「正解の・ようなもの」になっていることが、よくある。

それでいいのか、と思う。

仮にも、何十年も事業を続けている企業が、そんな外からぱっと見ただけでもすぐわかる「問題」を、ずっと放置しているということがあり得るだろうか? それは考えにくい。合理的に推測するなら、「段取替えの改善」を阻んでいる原因が、なにかあるはずだ。それは、「経営者の効率意識の低さ」なのか、「現場従業員の士気低下」なのか、あるいはほかのことなのか、なにかあるだろう

では、それが仮に「現場従業員の士気低下」だとしたら、それはなぜ生じたのか? そこにも当然、それが生じた原因があるはず。改善するためには、「真の原因」を探さなければならない。

という風に、考え始めるのだ、自分は。

で、結果として「正解の・ようなもの」とは大きくずれた答えを書いてしまう。ぜんぶ、アリストテレスのせいだ。

おとなですけど

もしここで「正解」が「外段取り化すること」だとわかれば、マジかー、とちょっとは思うかもしれないが、「出題者がそう言っているのだから、そういうものか」と、まるっと飲み込むことはできる。

そりゃ、おとなですから(本当は初老)、自分が納得できなくなってそういうものだと丸呑みしなければならないことが憂き世にはたくさんあることくらい、知っている。それを粛々と受け入れるつもりもある。

でも、「正解」は永久にわからない。出題者と関係ない赤の他人が作った「正解の・ようなもの」を素直に丸呑みしていいのだろうか、と考える。さらに、丸呑みしようにも、そもそもたくさんの異なる「正解の・ようなもの」がある。

「与件文に忠実に」「必ず与件にヒントがあります」などの、モットモラシイこともよく言われるが、そういうことをいう人たちが出している「正解の・ようなもの」がバラバラであるのだから笑ってしまう。そこからわかる結論は、必ず与件にヒントがあったとしても、やっぱり正解はわからない(ことがある)、ということだけだ。あとは、どの「正解の・ようなもの」を「信じる」のかという、信仰の問題になってしまう。

「正解の・ようなもの」は、まさに預言だ。神の言葉は絶対にわからない。わかるのは、「神の意志」がわかると自称する預言者たちの言葉だけ。そして、受験生ができるのは、どの預言者の言葉を信じるのかを選ぶことだけ。

まさか、2次試験学習が信仰だったとは、お釈迦様でも気づくまい。