自宅警備のお仕事とカント的自由

自分はもともとロングスリーパーで、最低でも1日8時間は寝たいタイプだ。そして夜型生活が好きなのだが、ロングスリーパーと夜型生活とは、直接関係ない。夜9時に寝て朝5時に起きる生活だっていいはずだ。ところがややもすると、朝5時に寝て昼の1時に起きるような生活になってしまう。理由はわからないが、なぜかその方がフィットする。心身の調子がすこぶるいい。不思議である。

いまは会社勤めをしているわけではないから、いつ寝ていつ起きようと勝手と言えば勝手だ。夜型生活がフィットするならそのままでもかまわないと思わなくもない。しかし、中小企業診断士試験は昼間に行われるのだから、昼間に頭がよく働くように、そろそろ朝型生活に切り替えるべきだろう。そう思いながら、つい昼寝をしてしまい、そしてまた夜に目が冴える。自宅警備のお仕事の欠点だ。

すると、どうしてもカントのことを考えてしまう。

「寝たいときに寝て、起きたいときに起きる」、「食べたいものを、食べたいときに食べる」「遊びたいときに遊べる」。そんな生活にはなんとなく「自由気まま」という言葉が思い浮かぶが、実のところ、そんな生活は自由でもなんでもない。犬猫チンパンと同類の本能に支配された生であり、人間としてはただの堕落だ。それはカントが教えてくれた。

「好きなことで生きていくな」とカントは言った、か?

ついでに言うと、「好きなことで生きていく」というようなことが、あたかも素晴らしいことであるかのように言われることがある。少し前に、YouTubeがそんな広告を大々的に展開していたことを覚えている方もあるだろう。

しかしこの「好きなことで生きていく」というのも、犬猫チンパンと同様の本能に支配された堕落した生である。結果的に、そのようなことを考えてしまう、考えざるを得ない場面というのは、長い人生の中で数回はあるのだけど、それはやむにやまれず考えてしまうということであり、先験的に肯定的な理念などでは、決してない。それを無前提に肯定的なものとして捉えることは、ただの文化的な退廃である。YouTube社の広告は、同社の収益のために作られているものであり、決して「新しい生き方の理想」を提示しているようなものではない。と、カントは言った(たぶん)。

では、人間らしい生とは、なにかと言えば、「自分の欲望を差し置いて、その時にやるべきことがなにかを理性で判断して、おこなう」ということだ。そしてそれを常にきちんとできることが、「自由な状態」である。

「こんな暑い日はランチのときにビールが飲みたいな」と思う。しかし、これから仕事があるのに、ビールを飲んではいけないと理性で判断する。そしてビールを飲まないことで、「ビールが飲みたい」という欲望に支配されない自由を得ている。

そこには、欲望を我慢しているという辛さもちょっとはあるかもしれないが、それよりも、欲望に対する理性の勝利、つまり「自分は、自分をきちんとコントロールできる人間である」という喜びがある。

「寝たい、怠けたい、好き勝手に飲み食いしたい…」、そういった欲望に支配されずに、理性で判断して、そのときにやるべきことをできるのが、「人間的な自由」ということの意味である。あるいはまた、地上において理性による自由を唯一持っているのが、人間という存在である。

「空気を読むな」とカントは言った、か?

「好きなことで生きていく」ことを先験的な善のようにとらえるのは誤りだし、ましてそれが「会社勤めはいやだから、ユーチューバーになる」というようなものなら、くだらないとしか思わないが、ではその一方で、昔懐かしい高度経済成長の会社人間、昭和的な滅私奉公、あるいは、現在の「空気を読んで周りに合わせて波風立てないことが一番大事」といった風潮が良いかといえば、まったくそんなことはない。とカントは言っている(たぶん)。

そこには、「理性による判断」が欠如しているからだ。

などと偉そうに書いているが、実はカントの原著は読んだことはないのだ。昔挑戦したが、あまりの難渋さに投げ出し、入門書を数冊読んだだけ。普通の人ならそれでいいよ、とカントも言っている(かな?)。

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